昭和時代に日本を離れた駐在妻の思い~先輩駐在妻インタビュー~

今回、1984年(昭和59年)にプエルトリコに渡り、駐在妻となった先輩にお話を伺いする機会を頂きました。
私たちは家族とキャリア、自分にとって大切ものとは何かを考え葛藤することがあります。昭和の駐在妻はどのような思いで海外に渡り、駐在生活を送っていたのでしょうか。

初めての海外

── 渡航された時のことを教えてください

1984年(昭和59年)8月、当時、小学6年生と4年生だった娘たちを連れて、プエルトリコに行きました。私にとってはこれが初めての海外。周りも海外旅行の未経験者が多く、心配されつつも羨ましがられていました。ただ、母が口にした「単身赴任してもらうわけにはいかないの?」という言葉だけは、今でも鮮明に覚えています。慣れない海外である上に、プエルトリコというよく知らない国へ行くということで、母は心配していたのでしょう。

── 渡航前、プエルトリコのイメージはいかがでしたか

私は駐在が決まった時から、不安よりも楽しみが勝っていました。駐在前も度々、出張でプエルトリコを訪れていた夫から話を聞き、抱いたイメージはカリブ海に浮かぶラテン系の明るい国。海の見える景色に夢を膨らませ、初めて乗る飛行機にワクワクしながら、渡航準備を始めました。

カリブ海に臨むビーチ

曇りなき心と1つの気がかり

── 渡航前からプエルトリコのイメージはとてもよかったのですね。渡航に向けてどのようなお気持ちでしたか。

夫が赴任してから私たち家族が渡航するまでの期間は3ヵ月。私は仕事をしていませんでしたが、荷物の整理や買い物、娘たちの転校手続きで、とても忙しかったと記憶しています。プエルトリコへ行くことの迷いは一切ありませんでした。日本では学べない貴重な異文化を体験できるなら、家族全員でジャングルでも行くという気持ちでしたし、夫はついて来てくれるものだと考えていたようです。また、夫の会社も最初から家族を帯同するのが当たり前という動きでした。

── 不安はありませんでしたか。

ただ1つだけ気がかりなことがありました。当時小学4年生だった次女のことです。次女は父親の海外駐在が決まった時、トイレに駆け込んで泣き、それから自分たちが渡航するまで「行きたくない」と言っていました。日本語が通じない国に行くということに漠然とした恐怖心があったようです。

しかし、いざ、現地の生活が始まるとあっという間になじみ、言葉は話せなくてもお友達と元気に遊ぶ姿を見せてくれました。その後、子どもたちはお友達とお互いの家を行き来し、お夕飯をごちそうになったり、ほとんどの友達とは英語で会話したり、充実した毎日を過ごしました。プエルトリコの母国語はスペイン語です。一緒に遊ぶグループ内にスペイン語しか話せない友達がいると、スペイン語と英語の両方を話せる友達が間に入って通訳してくれていました。2人の娘が楽しく元気にプエルトリコの生活を送ってくれることを期待していましたので、念願叶ったという思いでした。

80年代の駐在生活

── 当時の駐在生活はいかがでしたか。

現在にはあまりないだろうという海外駐在のエピソードがあります。夫の会社の方がプエルトリコに出張でいらっしゃる時は、よく我が家での夕食にご招待していました。月に一度入手できるお刺身や、なるべく現地のスーパーにある食材を使って、和食でのおもてなしです 当時の日記を読み返してみましたが、多い時で6~7人、月に数回、食事をしながら夜が更けるまで話が尽きない様子が書かれていました。でも、私は料理をするのが嫌いではなかったので苦にはならず、とても楽しい時間でした。こういった習慣はその後、徐々に減っていったようです

── 日本食材はどのように入手されていたのですか。

当時、日本食材を置いているお店はありませんでした。現地の方と結婚された日本人の方が月に一度くらい、ニューヨークから日本食材を仕入れていて、入荷されると連絡をくださいました。こうして連絡が入るとすぐその方のお家へ行って、貴重な乾物やわずかな冷凍のお刺身などを買っていましたね。

自宅のキッチン・貴重な日本食材でのおもてなし

駐在生活への思い

── 駐在生活で大切にしていたことやこだわりはありましたか。

私たち家族が住んだのは日本人の駐在家族が住んでいないマンションでした。これは私が住居探しで出した条件の1つです。語学力に自信はなかったのですが、たとえ言葉の壁にぶつかっても、プエルトリコで日本人社会から離れた生活を送りたいというこだわりでした。海外駐在生活は、たいてい数年間の短いものです。そのような限られた時間の中で、どのように過ごすかに正しい答えはありません。だからこそ、自分の思いを生活に反映させることは大事だと思います。

── 駐在生活で苦労はありましたか。

時が経っているからかもしれませんが、思い返しても苦労だと感じることはありませんでした。しいて言えば、日本語補習校で日本人同士のつき合いに、少し悩んだかなというくらいです。クリスマス会で人形劇をするために、日本から材料を取り寄せて皆で制作をした時のことでした。でも、私は海外に来てまで、日本人との接し方に気を遣って疲れてしまうのはもったいないと思い、あまり考え過ぎないようにしました。

── ご苦労がなかったとは驚きです。苦労を思い出せないほど駐在生活が充実していたのかと思います。ご自身のやりたかったことはできましたか。

プエルトリコでの3年間を思い返すと、家のソファーより車の運転席に座っていた時間のほうがはるかに多かった気がしています。子どもたちが通っていたアメリカンスクールと日本語補習校への送り迎え、お友達の家に遊びに行くにも習いごとに行くにも、何をするにも車で移動していました。私は子どもたちのために、家族のためにと思って毎日を過ごしていましたが、それが私のやりたいことだったと、今、お話をしていて改めて気づきました。ずっと日本にいたら出会えなかっただろう人たちに、夫や子どもを通じて出会えましたしね。慣れない英語で話したこともいい思い出です。

建物の2階にあった日本語補習校

駐在妻の皆さんへ、アドバイスをお願いします

海外にいる皆さんには、限られた時間を大切にしてほしいと思います。この歳になって人生を振り返り、海外での生活は私の人生に彩りを与えてくれたと感じています。後にも先にも1度きりでしたが、だからこそ駐在生活中はその環境を受け入れ、専念しました。

とは言え、海外生活だからといって無理に気負う必要はありません。海外での出会いを楽しみ、「日本にいたら悩んでいたかもしれないことを、ここでは悩まなくていい~」というくらいの気持ちでいればよいと思います。

そんな中で自分が何をすれば気持ちが満たされるのかを考え、自分にとって大切なことが見えてくるのではないでしょうか。私の場合は、夫や子どもを通してできた友人関係、地域や学校でできた人とのつながりが楽しさへとつながりました。

皆さんの駐在生活がそれぞれの色で彩られることを願っています。

<編集後記>

今回お話を伺った駐在妻の先輩は、ご主人の駐在により海外生活という貴重な機会を得て、家族のことを思い家族のために過ごしていらっしゃいました。しかし、そこに受け身な印象はまったくありません。出張者をもてなすことも、子どもたちの送り迎えをすることも、ご自分が海外生活を楽しむ要素でした。考えるのは他者のことであっても、主語は自分自身。

考えてみれば、私も休日は子どもの習いごとをはしごして1日が終わります。私自身が子どもにピアノを弾けるようになってほしい、泳げるようになってほしいという思いを持って目標を立て、それに向かうことを楽しんでいるのでしょう。

伺ったお話を自分に近づけ整理すると、昭和、平成、令和と時代が移っても、人生の主語は自分自身であることに気づきました。それは、私たちがよく見聞きする「駐在生活は『帯同』(連れて行くこと)なのか『同行』(ついてくこと)なのか」にもつながっているように感じます。そして、先輩は「人生の彩り」という言葉を使われましたが、私たちはそれを「駐在生活はキャリア」と認識しているのだと思いました。

これからも駐在妻の思いやあり方において、変わりゆくもの、変わらないものを考えていきたいと思います。昭和時代の駐在妻についての情報をお待ちしています。

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