度重なる海外生活でも、キャリアを紡ぎ豊かにするには <中編>

1カ国目で日本語教師に従事したことをきっかけに、本帰国後に大学院進学、その後に続く海外生活でも教師や執筆活動とキャリアを重ねていったという松原さん。海外生活を繰り返す度にキャリアの幅を広げていかれたお話は、自分で生活のコントロールをしづらくキャリアプランに悩む駐在妻たちへの心強いメッセージとなるでしょう。
4カ国に渡るご経験を、全3回でお届けします。

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個々の活動がシナジーを生んだドバイ生活

―その後また海外に行かれたのですね。2006年、2度目の滞在地ドバイでの様子を聞かせてください。

大学院で修士課程を終えた後、そのまま博士課程に進学しました。あいにく博士論文がはかどらず行き詰っていたころ、ちょうど夫にドバイ駐在の辞令が出ました。博士課程を続けるべきかどうか悩みましたが、論文を終えるめどが立っていなかったので論文執筆を断念し、博士課程を中退して夫に同行しました。

ドバイは2004年にブルジュ・ハリファの建設が始まったことなどをきっかけに日本でも有名になりつつありましたが、在住する日本人は少なく、現地の人々との交流もほとんど持てずにいました。日本語教育に関しても、授業を設けている機関はありませんでした。そのような中で数カ月ほど物足りない日々を送っていたころ、「カルチャーセンターに日本語教師募集の貼り紙があった」と仲良くしている駐在妻の友人が教えてくれました。そのセンターにはアラブ文化やアラビア語を教えるクラスがあり、また、しゃれた喫茶店や売店もあったので地元でもよく知られている場所でした。それまで現地の人との接触がまったくなかったので、日本語を習いたい人がいると知ってとても驚きました。さっそく連絡を取り、面接を経て、週に数回、個人授業をすることになりました。その時の生徒のひとりが国立大学の女子学生で、これが運命の出会いとなりました。

―ドバイでも日本語教師としての生活が始まったのですね。運命の出会いというのが、この後の飛躍を予感させますね。

彼女はちょうど大学に日本語の教師を招聘し授業を開くよう掛け合っているところで、なんと私をそのポストに推薦してくれたのです。そして、現地の多くの若者は日本のアニメを見て育ったようで、日本に興味を持っている人や日本語を習いたい人がたくさんいたことに更に驚きました。ドバイに日本語に関心のある人がこんなにいるとは……。大学では特別授業として日本語の開講を認められ、私は週に数回、大学でも教えることになりました。現地の風習を知らない私は現地の人たちと付き合っていくことに少し不安を感じましたが、国際都市ドバイで生まれ育った若者は外国人に慣れており、問題はありませんでした。授業は英語と日本語で行いましたし、当時のビザで許容される範囲内で働くことにしました。

大学では日本語のほか、女子学生を対象に空手道を教え始めました。私が空手道をすることを知った生徒たちから頼まれたのです。空手道は大学時代の米国留学の際に始め、その後もずっと続けていました。ドバイに渡航する前に、海外で空手道を教えられるチャンスがあるかもしれないと考え、中級者まで教えられる資格を取得していたのが役に立ちました。

また、となりの都市アブダビで、日本とUAE双方の団体が共同で立ち上げた茶道教室の講師をボランティアで担当することになりました。茶道はOL時代に始めたものですが、こちらもドバイに渡航する前に講師の資格を取得していたので役に立ちました。

日本語教師

―日本語教師の経験を積むだけでなく、空手や茶道の経験も活かすことができたのですね。いずれもドバイ渡航前に講師の資格を取得されたようですが、趣味からレベルアップさせようと考えたきっかけがあったのですか?

バンコクにいた頃、友人がボランティアの後任として私に声をかけてくれた大きな理由に、私が多少なりとも茶道の心得(こころえ)があったことがあげられます。ちょうど、その学校の先生が茶道に興味を持っていて、茶道ができる人を探していたのです。茶道のおかげでバンコクの学校とのつながりができ、それが将来のキャリアの起点となりました。また、バンコクではいくつかの茶道グループがお茶会などを通して地元の人々に歓迎されていることを知っていたので、茶道を通して外国の方々と交流を持ちたいと強く思い、帰国後も茶道のお稽古を熱心に続けました。

また、同じようにバンコクの教師時代にも生徒から「空手を教えてほしい」と頼まれたのですが、当時の私は教えられるレベルの技術も心構えも持ち合わせておらず、断らざるを得ませんでした。しかし、空手道に関心を示す外国人が少なくないことがわかりましたし、今後も続くであろう海外生活で次に頼まれた時には「日本の武道に挑戦してみたい」という外国人の希望を損ねたくないと考えました。そこで、バンコクから本帰国した後に、かつて習った道場に再び通い始め、講師資格を得るために技能試験や筆記試験を受けたのです。  

―ドバイでは、松原さんの今までの学びや経験が一気に実を結んだように感じますね。

そうですね、大学院の学びやその他の資格が活かせたのは幸運でしたし、夫もドバイで私の経歴や技能が活かせたことをよろこんでくれていました。ただ、困ったことも起こりました。それは、私がさまざまな活動をするにつれ、私や夫を奇異の目、当惑の目で見る日本人が出てきたことです。

私がドバイで生活を始めた2006年頃はちょうど交通網が発達し、以前より楽に外出できるようになっていましたが、それ以前は自家用車がないと外出が難しく、駐在妻は現地社会と関わるような活動はほとんどできなかったそうです。そんな中で、私は現地社会との関わりも多く、少額とはいえ賃金を得ていたこともあったからだと思われます。しかし、就労に関しては私の説明不足から発した問題でもあったため、カルチャーセンターや大学の経理担当から教えてもらった給料に関する規則を説明し、少しずつ周囲から理解を得られるようになりました。

―今でも駐在妻の就労は容易ではありませんが、当時はもっと難しかったのでしょうね。松原さんはどうして働きたいと思われていたのですか?

私の場合、「働きたい」というわけではなく、一番やりたいことが「現地社会に溶け込んだり、現地の人たちと仲良くなること」でした。それを実現する過程が、たまたま「働くこと」だった、という感じです。働くからにはプロフェッショナルとして職業意識を持って臨みますが、一方で家族や周囲に迷惑をかけない範囲で働きたいと考えていました。なので、私の海外での職歴は履歴書では栄えますが、得た報酬ではまるで生活できませんよ(笑)

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