度重なる海外生活でも、キャリアを紡ぎ豊かにするには <後編>

1カ国目で日本語教師に従事したことをきっかけに、本帰国後に大学院進学、その後に続く海外生活でも教師や執筆活動とキャリアを重ねていったという松原さん。海外生活を繰り返す度にキャリアの幅を広げていかれたお話は、自分で生活のコントロールをしづらくキャリアプランに悩む駐在妻たちへの心強いメッセージとなるでしょう。
4カ国に渡るご経験を、全3回でお届けします。

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素晴らしい経験が得られたのは、過去の経験の積み重ね

―その後も海外生活は続いたのですね。2013年、3度目の滞在地ロンドンでも日本語の教師をされたのですよね?

ロンドンでは、幸い私のビザで働くことができました。教育機関への就職を希望していたので、国際交流基金ロンドン日本文化センターのメーリングリストに登録して求職情報をチェックしていました。そこで見つけたハロウスクールという地元の私立中高一貫男子校の非常勤講師職に応募し、無事に採用されました。そこは、パブリック・スクールと呼ばれる私立の伝統校で、教育に熱心な富裕層の子どもが通っています。中世の趣を残した校舎が立ち並び、映画『ハリー・ポッターと賢者の石』の撮影地のひとつにもなりました。

後から聞いた話ですが、私の採用にあたっては、駐在員家族で滞在予定が数年しかないことがネックになっていたそうです。しかし、2カ国での教師経験の実績に加えて、採用担当者が私の勤務態度などをドバイの大学の元上司たちに電話で問い合わせ、元上司たちが私を強く推してくれたことが決め手となったそうです。ドバイの大学では授業のほかにも、大学行事に参画したり学生の国際会議派遣に携わったりしていたので、上司たちが私の努力を見て評価してくれていたことがわかり、うれしさと感謝の念でいっぱいになりました。

―ロンドンでの教師生活はどうでしたか?

イギリスでは、義務教育を終える直前に全員が受ける国家試験と、大学入学のための共通テストの選択科目にそれぞれ日本語がありました。私は、ロンドンの学校でそれらの試験のための日本語の授業を受け持ちました。学校は全寮制で生徒たちは夜10時ごろまで活動する日もあり、当番になると教師もその時間まで学校にいる必要がありました。「会議は9時から」と言われ、朝の9時だと思っていたら夜の9時だったということもあったほどです。忙しい教師生活でしたが、夫は私がその仕事にやりがいを感じていることをよく理解してくれていたので、私の帰宅が遅くても自分で食事を済ませるなどして特に文句は言いませんでした。

授業の内容も高度で準備が大変でした。例えば、学期末の成績表は日本と異なり評価を細かく文章で書く必要があるため、同僚からダメ出しを受けて書き直すことも多々ありました。また、大学入試の共通テストで生徒の日本語の点数が芳しくなかった年は、ストレスで重い帯状疱疹を患いました。しかし、私がイギリスの教育方法や勤務校の慣行に馴染んでいくにつれ生徒の成績は上昇し、日本の学校との交流なども実現して苦労は報われました。クラブ活動の顧問の仕事や旅行の引率は、自分も生徒と一緒になり楽しんでいました(笑)。

現地生徒との交流

―ロンドンでの教師生活は、バンコク・ドバイ時代とはまた異なった経験となったのですね。

パブリック・スクールは、イギリスの首相をはじめ、財界や芸術、芸能界などの一線で活躍する人を数百年に渡り輩出していることで有名で、その教育方法に関心を持っている人は大勢います。パブリック・スクールについて書かれた本は日本でも教育学研究者などにより出版されていましたが、実際にそこで教えた日本人が著した本はなかったので、自分の体験談を読んでくれる人はいるはずだと思い、勤務中から執筆の構想をあたためていました。それが、教師を退職後に一気に書き上げた『英国名門校の流儀 一流の人材をどう育てるか』(2019、新潮社)です。

振り返ると、ロンドンで勤務した学校は世界各地から優秀な生徒が集まる有名な学校でしたが、このような素晴らしい学校に勤務できたのは、今までの滞在地で教師経験を重ねてきたおかげです。バンコクとドバイで勤めた教育機関でも多くのことを学んできましたが、ロンドンでは特に能力の高い教職員と生徒たちに囲まれていたので、さまざまな刺激を受けながら自分自身を反省し、それを成長に結びつけることができたと思っています。

2018年に夫が今度はリオデジャネイロ(以下、リオと記載)に赴任することになり、私も学期のタイミングをみて退職し、リオへ赴きました。

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