20年以上の海外生活を経て、日本への帰国後に正社員で再就職された武山千恵子さん。
大きなキャリアチェンジを遂げて現職に就くまでのお話を伺いました。
お茶をして過ごすだけじゃ満足できない。
アメリカでは大学院修了後に就職
―海外に行く前は、どんなお仕事をされていましたか?
もともと海外との貿易に関わる事務やフォワーダーの仕事をしていました。
―ご主人のアメリカへの赴任が決まったときはどんな気持ちでしたか?
結婚してすぐに夫の海外赴任の話が出ました。英語はまだそれほどできなくて不安もありましたが、私自身も「海外に行きたい」と思っていたので、すごく嬉しかったですね。ただ、当初は3年から長くても5年くらいの任期と聞いていて、まさか21年にもなるとは思っていませんでした(笑)。
―アメリカでの滞在中、帰国後の仕事についてどんなふうに考えていましたか?
はじめの頃は、全然考えていなかったですね。ただ、帰国後に履歴書に書けるくらいの英語力は身につけたいと思って、まず英語を学ぶために無料の語学学校に通いました。でも、それだけではもの足りなく感じてしまい、地域のコミュニティカレッジから4年制大学へ進んで、最終的に10年間で大学院まで修了しました。
North Eastern Illinois University 卒業式(アメリカ のイリノイ州)
―アメリカに滞在中に大学院まで出られたのですね! アメリカではお仕事もされていたそうですが、どのようなきっかけで働かれたのですか?
大学院を修了してすることがなくなってしまったものの、まだ帰国する予定もありませんでした。ときどき日本から来た奥様たちとお茶をして過ごすことがありましたが、それだけでは自分自身が成長せず、満足できないなと思ったんです。もともと向上心があるほうで、英語もある程度できるようになったこともあって、働いてみることにしました。
―具体的にどのようなお仕事をされていたのですか?
まず日系の派遣会社にすべて登録し、最初の1年はパートタイムの派遣で働きながら、希望するフルタイムの仕事を探しました。ようやく日本の大手自動車メーカーの現地法人で人事のポジションが見つかって、日本から来る赴任者の福利厚生の手続き業務に5年ほど携わりました。上司のみ日本人、それ以外はすべてローカルの社員という環境でしたが、根回しではなく、会議の場で徹底的に議論して決めていく点や、「できる・できない」の意思表示がはっきりしている点が、私には合っていてとても働きやすかったですね。
旅行先のメキシコ州にて観光中にバッファローを発見
引きこもりになりかけてしまった中国生活。
勇気を振り絞って一歩踏み出し、すべてが変わった
―その後、アメリカから中国に移られたそうですが、中国での生活はいかがでしたか?
中国では、深センに5年ほど住みました。最初は中国語が全くできなくて、だんだん外に出るのも嫌になり、引きこもりになりかけていました。
―語学ができないと、出かけること自体が億劫になったりしますよね。引きこもりになりかけて、その後どうされたのですか?
引越から半年ほど経ったときに、「これではいけない!」と奮起して、まず語学学校に通って、中国人の友達をつくりました。それから、勇気を振り絞ってジムにも入会したんですよ。片言の中国語を使いながら手続きをするのもやっと、というような状態でしたけど(笑)。
―アメリカ生活もそうですが、千恵子さんはいつもご自身で道を切り開かれて語学を学んだり、新たなことに挑戦されてきたのですね。
そうですね、アメリカでもそうでしたが、日本人の輪に入るのは簡単ですが、やっぱりそこから一歩踏み出さないと語学の上達も、自分自身の成長もないのかなと自分の経験からも感じています。ジムでは、通い始めると次第に顔なじみの人ができ、少ない単語を駆使して意思疎通がとれるようになって、友達になり連絡先を交換してメッセージをやりとりするようになりました。そうなると、中国語もどんどん覚えて、さらに関係が深くなり、実は帰国した今でも交流が続いているんですよ。あのとき勇気を振り絞って一歩踏み出し、ジムに行って本当によかったと思っています。
―やっぱり現地の友達ができることは海外生活の醍醐味のひとつでもありますよね。こうしたアメリカ・中国での海外生活の経験から、何を得たと思いますか?
アメリカで4州、さらに中国へ移って生活する間に起こったさまざまな手続きや交渉ごとは、忙しい夫に頼らずに全て自分で行うようにしていたんです。アメリカは、1つの州が1つの国といってもいいほどルールや生活習慣も全く違うので、手続きも毎回違って、最初は苦戦しましたが、こうした経験をとおしてどのような場面でも対応できる力が身についたと感じています。
旅行先のバンコクにて